中世ヨーロッパの宗教
岡田斗司夫さんの動画にハマっている。話がすごく分かりやすく面白い。今日はこの動画。
以下、内容メモ
・ゴシック建築ができたのは12〜13世紀
<どんな時代だったか>
・11世紀以前はローマ帝国が終わり暗黒時代が続いていた。森(広葉樹)に埋もれてヨーロッパ世界は死につつあった
・森の恐ろしさ
平地のヨーロッパにおいては見通しが悪く足場も悪い。捕食獣や盗賊に怯えながら人々は暮らさざるを得ない
森の間の村と村の間には道がなく、残されたローマ時代の街はゴーストタウンと化している。異民族の侵略により、村には人口が少ない
・10世紀ごろ侵略はなくなるが住民は知るよしもない
・キリスト世界ではキリスト生誕から10世紀までの1000年で世界が終わると思われており、人々は世界が終わると思っていた
<当時のキリスト教>
ベネディクト会(クリュニー会)とシトー会
・クリュニー会:祈れ(厳しい戒律、黒い服、山の上にいる)
・シトー会:働け(白い服、人々と同じ場所で生活し農業推進、いろいろな農業器具を持ち込む)
<シトー会の政策>
・馬の蹄鉄などの開発
馬の蹄は弱く感染症にかかりやすいため、それが原因で直ぐしんでしまっていた。戦闘には使えてたが人々は農業に使えるとは思っていなかった。鉄をつけることで感染症を防ぎ農業でも使えるようにした
・森を開拓し農地にするようにした
その結果フランスからは森が少なくなる
※なぜ森を伐採していったか?
かつてキリストを苦しめたパレスチナの大自然→ヨーロッパの人々を苦しめている森=大自然は悪という思想
その結果農作物の収穫量はかなり増え、パンが焼ける余裕ができ、パンなどは保存がきくので食べられるようになってきて人口が増え出した
※しかし当時の農民は
農民は森の伐採を嫌がる=当時の農民はキリスト教をあまり信じていなかった=ケルトやゲルマンの古代の神がまだ信じられており、森はまだ神聖なものだった
しかし食えるようになってしまいしぶしぶ森を開拓→人口は増える
→それでも食えない人々(農家の次男坊や三男坊など)がゴーストタウンに集まり出す→中世の都市の誕生
→しかし集まった人々はまだキリスト教を信じていない→ゴシック大聖堂の誕生のきっかけ
ゴシック大聖堂が何故できたか
①マリア信仰ブーム
マリア信仰:19世紀にようやく正式に認められる
キリスト教=男性宗教
当時のヨーロッパの人々の感覚とは違った
→森信仰なので女神信仰だった
1950年代に教義認定受けた後、世界中でマリア目撃情報が多発する
※何故マリア信仰は人気があるのか?
男性神は怖い、祈ればっかり、磔にあってるし救いがない
祈っても救われる人は決まってる
しかしマリア様は強いコネ持ち、キリストに祈っても許してくれないがマリア様なら許してくれる
マリア信仰のために作られた寺院全て:ノートルダム寺院
→過激化し、マリアの母アンナまで信仰されるようになり、バチカンは激怒、のちにゴシック建築破壊運動に繋がる
動画はここまで。有料版購入しようと思ったがアマプラにはなかった…
この動画がきっかけとなり、ここまでのキリスト教の変遷に興味を持ったので以下のサイトにて世界史の復習。
https://www.y-history.net/appendix/wh0103-132.html#04
30年:キリスト死亡。キリスト教の誕生
50年頃〜:キリストの弟子のパウロとペテロ、小アジア・ローマで布教
→救いの対象をユダヤ人だけではなくあらゆる人々にしたことで
世界宗教として変質
64年:ローマ大火
ネロ(54年〜68年)により大火の原因はキリスト教徒と断定され、迫害される
→これにより当時マイナーだったキリスト教の名が知れる
なるほど、最初の大規模なキリスト教迫害がネロによるものだから、キリスト教世界でネロは悪く書かれてるんだなー。ネロの在位と最初の使徒による布教の時期が被ってるのも何というかすごい時代だ…
68年〜70年:ローマ軍内でのネロへの不満を発端にローマ内戦。
69年〜96年:フラウィウス朝
96年〜192年:ネルウァ=アントニヌス朝
117年〜138年:ハドリアヌス帝の時代
帝国の安定化を図り、法整備、現場にもよく顔を出す良いトップ。
エルサレムをローマ風にし、ユダヤ人に立ち入り禁止。以後ユダヤ人は離散していく。(ユダヤ人っていつの時代も嫌われすぎだろ…)
ローマ神殿を各属州に作ったりしてるので、まだキリスト教の影響力は低そう
192年〜197年:再び内戦
193年〜235年:セウェルス朝
235年〜284年:軍人皇帝時代
無数の皇帝が乱立して帝国の権威失墜
異民族がやってきて国境を奪われるなどしてローマ帝国もいよいよやばくなってきた
284年〜311年:ディオクレティアヌス帝時代
皇帝崇拝とローマの神々への礼拝の義務づけ。
内部で既に広がっていたキリスト教を最初は上の条件付き容認する
→キリスト教徒、条件を無視。軍からも離脱するなど反逆行為。
303年:キリスト教弾圧。
聖書は焼却、教会などは破壊された
キリスト教徒めっちゃ嫌なやつじゃね?当然としか…()
312年〜337年:コンスタンティヌス1世帝時代
内戦で他の皇帝を倒し再びローマ帝国は再統一。
母親が元々キリスト教信者で、312年の内戦時、空に浮かんだ十字架を見て十字架を押し立てて戦い勝ったことからキリスト教信仰に入ったという伝説がある(ええ…)
313年:ミラノ勅令でキリスト教を公認。帝国でのキリスト教迫害が終わる。(そんなふわっとした理由で認めてええんか?)
コンスタンティヌス帝自身もキリスト教に改宗し、その後のヨーロッパ世界に多大な影響を与える
(この人がキリスト教になってなかったら今頃どんな世界になっていたんでしょうね…)
325年:ニケーア公会議
キリスト教ローマ帝国の一致に利用しようとしたコンスタンティヌス帝により主宰された、初の全教会規模の公会議。
キリスト教も生まれ300年以上経ち、いろんな解釈が生まれていたので解釈を一本化しようというものだった。
*アタナシウス派:キリストも神
*アリウス派:キリストは人
361年〜363年:ユリアヌス帝時代
育った土地でギリシアの古典や哲学に親しみ、キリスト教に疑念を抱く。
財政削減のため、その一環としてキリスト教の公認を取り消し。
教会や教父への支援を打ち切る。
→キリスト教迫害ではなく、古来の神々への信仰など異端とされていた宗教を寛容するものだった。
→危機感を持ったキリスト教徒は各地で神殿破壊
→報復として異教徒が教会焼き討ちなどをし、宗教対立が悪化する
379年〜395年:テオドシウス帝時代
内戦が続く中、宗教的紛争の解決に重点を置く。
380年:キリスト教に改宗、国境として認める。
381年:コンスタンティノポリス公会議を招集。
アタナシウス派の三位一体説を正統として確定し、他は異端とする。
390年:ギリシャで暴動を起こしたキリスト教徒を殺害・鎮圧するも
ミラノ司教がこれに抗議し皇帝を破門。これに屈し、司教に許しを請うたことにより以後強く影響を受けることとなる。(は?やっぱキリスト教徒クソじゃん…)
392年:キリスト教以外の宗教を禁止
この皇帝最初から割とキリスト教推しですがなんでなんですかね…
395年:テオドシウス帝死去。ローマ帝国は分裂し、教会も東西に分裂。
426年:教父アウグスティヌス『神の国』を書き、教会を現世における神の国と位置づけ信仰の拠り所とするなど教義を確立させていく。
各地に教会が建設され、聖職者も配置されていく。
同じ頃、アイルランドで初めて修道院ができ、信仰の修行・聖書の研究・写本の制作などが行われキリスト教文化が深まる
(なんでそんな遠くから…)
5世紀の終わり、西ローマ帝国滅亡後、保護者を失う
異民族や東のコンスタンティノープル教会との対立などもあり苦境に。
496年:フランク王国のクローヴィスの改宗
後ろ盾を得て、東の勢力と対立ができるようになる
→クローヴィスもクローヴィスで王妃がアタナシウス派の信者だったとか、ローマの最先端の文化を取り込みたいという理由があったようだが、つくづく救いの手が現れるなキリスト教…
→一般のフランク人はそれまでは多神教信仰のままだった。
やっぱり自然多いところは最初は多神教になるものなんでしょうか。今のヨーロッパ人、自分たちの祖先は昔は多神教だったって知ってる人どのくらいいるんですかね…
529年:ベネディクトゥスが、ベネディクト派の修道院を始める
→原初の教えに帰り、腐敗堕落した教会を改めようとするもの
→のちに腐敗(おいおい)
590年:ローマの貴族だったグレゴリウス1世がローマ教皇として即位。
ベネディクト派の修道士を西ヨーロッパ隅々まで派遣し布教を進める。
ローマ・カトリック教会の基礎ができる。
なるほどと思いつつここで一旦〆。
うーん、幼稚園からカトリックできたが、あんまり良くない印象がさらに強まった()
キリスト教はクリスマスにケーキ食べる程度のライト層がいちばんいいとおもいました(